2022/07/30
《未来型As混合物製造》「クローズドループ・資源循環へ向かう最強の未利用資源【残コン】争奪戦が始まる」#6
着想は止まらない。やることいっぱい。何から手をつけたらいいんだろう。だからこそ、共同がある。それは全体から見たら「創発」と呼ばれるのかもしれない。白石建設も、長岡生コンクリートも、関係するすべての人々も。何かに囚われるんじゃなくて、自分自身の興味関心に素直であればそれでいい。未来型As混合物製造。
※トップ画像引用元:https://www.jam-a.or.jp/asphalt/facility.html
AsとConの間に壁は要らない
分断って必要?
受験生・中学3年生の長男の様子を見てるとふと思い出すことがある。
はて。
なんで、この子たちは、そして、僕たち大人たちも含めて、何かや誰かと競わされてる(分断されている)んだろう。
振り返れば子供のうちから、まさに洗脳と言ってもいい教育を受けていた、という仮説が成り立たつ。
物心ついた頃から、序列で評価されてきた。
僕は中学の時英語は無敵だったが、その他がいけてなさすぎて、結果総合ランキングで10番以内に入ったことは1回しかない(まぐれ)。
でも、時の運ともいうべきか、地元では進学校とされる高校に合格した。
きっとビリで入学したんだと思う。
僕か、宮垣建設の宮垣か、多分どっちかがビリだったはずだ。
高校進学後も僕は英語に関しては無敵だった(テストのたびに張り出される番付では常に1位か少なくとも10番以内に必ずいた。もしかしたら過去の記憶を綺麗に飾ってるだけかもしれない)。
ただ、その他がいけてなさすぎて、総合順位ではまあまあいけてない部類に序列されていた(宮垣はその後も一切勉強に励むことなく、ビリで入り、ビリで卒業した)。
部活も似たようなもんだ。
常に、長岡中学校は近隣の韮山中学校やら大仁中学校やらと競わされていた。
そして、試合が終われば、序列で評価された。
あなたは、一回戦敗退です、あなたは優勝です、と。
これ、社会人になってから、どうなんだろう。
見渡せば、誰もが序列で評価されているように見える、スーゼネとか、中堅GCとか、地方ゼネコンとか。
あるいは、役員とか部長とか課長とか係長、平って感じ?
また、あんま興味ないが野球も毎年1位から6位(?)まで序列されているようだ。
で、誰が得点王だとか、すごいピッチャーだとか、序列されている。
相撲もそうだね。
常に、序列で評価され、プレイヤーは一喜一憂している。
僕の専門はコンクリートであるから、あまり経済とか政治を語ってはならないのかもしれない。
ただ、この「常なる序列」という制度は実際誰が得をしているのだろう。
プレイヤーの僕たちだろうか。
それとも?
そもそも、僕たち経済人(事業者や勤め人)はなんのために生きている?
市場と顧客に評価される、つまり貢献することで、代価としての収入を得ているはず。
誰かと競わされるために生きているわけではないはずだ。
「比べる必要ある?」 生コン:アスファルト混合物=5:95
日課であるブログはいろんな意味で日々の自身の活動を分析するのに役立つ。
自分がやっていることや、思考について、客観的冷静に振り返ることができる素晴らしい習慣だ。
もはやそこに、「情報を発信して少しでも目立って儲けよう」みたいな意図は薄く、内省・分析の意味合いの方が厚い。
さて、常に僕たちコンクリート産業は舗装分野においてアスファルトと比較・序列・分断されてきたされてきた。
最近共同している道路会社の多くの人々も、コンクリートが台頭することを「脅威」と考えているようだ。
常に互いの95(As):5(Con)を「勝った」「負けた」の二元論で考えている。
アスファルト陣営は、コンクリート陣営に負けないように、頑張る。
コンクリート産業はポンコツだから、その土俵にすら立てていない感じだが、それでも課題意識を持って、アスファルト陣営に少しでも噛みつこうと、頑張る。
頼んでもない誰かに競わされる。
互いが互いを脅威と見做す。
果たして、脅威なのだろうか。
脅威は本当に脅威なのか
この言葉は古典経営学の作者ドラッカーさんが著した著作「創造する経営者」の222頁のタイトルだ。
要約すれば、「脅威」ってのは自己目線であって、社会目線ではない。
社会から見たらどこか特定の誰かの「脅威」は「機会」であったりする。
個人(プレイヤー)都合で物事を見るのではなく、世界(市場と顧客)都合で物事を眺める。
すると、本来自分達が果たすべき役割が、わかる。
そこに機会が生まれる。
禿同である。
ドラッカー、やるなっ、って感じだ。
そう考えると、アスファルト陣営とコンクリート陣営が互いを「敵」「競争相手」と見るのではなく、社会全体をより実り豊かなものにするための構成要素同士と思えるようになる。
仲間、ってやつだ。
世界(エコシステム、市場)の循環をより淀みなく美しくするための同志。
生コン・アスコン同じ敷地にあったらどうだろう
最近ディスコードがアイディア道場と化している。
思いつくままにチャットにコメントを入れている。
釈迦でーすは白石建設武南さんで、錦鯉がお笑いコンビ錦鯉の長谷川さんだ。
もう、僕たちの心は生コンでもアスファルトでもなく、マテリアル(プロダクト)に移ってしまった。
所詮、生コンもアスファルト混合物も、マテリアルであり手段でしかない。
決して目的ではない。
このやりとりは何を意味しているかというと、つまり残コンステーション最終形態を鎹(かすがい)にしてAsもConも同じ敷地で作っちゃおうよ、ってこと。
ちなみにこの僕、今年1級舗装施工管理技士をめっちゃ勉強して受験して合格する見通しだ。
⚫︎参考記事:「1級舗装施工管理技術者試験を受験しました」(週刊生コン 2022/06/27)
で、そんな僕は、知っている。
アスファルト混合物を製造するのは生コンクリートと違ってJIS規格を気にする必要がない。
自由度半端ねえ。
写真は全て残コンステーション最終形態で製造された未利用資源「残コン」由来の砕石・砕砂・フィラー(セメント)。
現在のJIS A 5308では到底使うことを許されない原材料だが、ワンチャン自由度の高いアスファルト混合物製造所ならどうだ。
ここは軽々に専門家ではない僕たちが判断できないが、身近なアスファルト混合物の専門家、ロテックのパイセンやオクドの藤森さんなら判断できるかもしれない。
生コンプラントとアスファルト混合物プラントの間に残コンステーション最終形態があってそこではそれぞれに残コンを由来とした原材料を提供する。
美しい夢のようなストーリーではないか。
絶対に形にしたい。
分断から統合へ向かおう
さて、ここで、アスファルトの専門家であるロテックのパイセンやオクドの藤森さん相手に、「どっちが技術者として上か、下か」と論じることに意味があるだろうか。
もっと言えば、同業者である白石建設の武南さんと僕はどっちが生コン屋として優れているかを考える意味って?
お互い、生コンとアスファルトだよ。
お互い、岡山だし、静岡だよ。
互いは互いに全く環境違う。
出自も全く異なる。
競い合う、序列することに、意味ねえだろ、ってことー。
これまでの経験で僕たちは地域や枠組み(つまり分断)を超越して統合(AまたはBではなく、AもBもの発想)することで多くの成果を上げることを知っている。
アスファルトかコンクリートか。
この発想を捨てよう。
建築か土木か、も変な話だ。
建築も土木も、って考えることで、造園も、外構も、農業もって感じで展開が広がる。
アスファルトも、コンクリートも、という発想の転換で、次なるマテリアルが誕生するのだと真剣に思う。
その先のストーリー、見てみたくならない?
宮本充也